epi.3
3.本物の夜
3.1.地球極大
ペリジに降下を完了した東京コクーンは「地球極大」を迎えます.
このときの地球は,第1話で述べた通り視角140.4°で見えるので,まさに目の前を覆い尽くさんばかり…これは直径16mの巨大な球をその表面から50cm離れて眺めるのと同じです.
東京コクーン内の重力は0Gとなっているため,人々は思い思いの場所で寄り添いながら地球を眺めています.
都庁ドームの床面には固定された櫓や露店があって,その周辺にいる人々は恐らく金属製の床面を磁石付きの靴で歩くなど,それなりの仕組みが適用されているのでしょう.やはり,想い出や伝承の中のお祭りを再現したいと思うのは,旧人類の切なる希望だからではないでしょうか.
一旦床からジャンプすれば,そのまますーっとその方向へ動き続けますが,コクーン住民は無重力下での移動方法を体得していることでしょうから,うまくまた床に戻るということもお手の物でしょう.でも中にはそのままドームまで上がってしまうような場合もあるでしょうから,そのときは救援隊の出番か,互いに助け合っているのではないかと思われます.
3.2.夜の長さ
コクーン住民にとって「本物の夜」とは,過去の経験からか,または伝承されているのか,何時間も地球の日陰(にちいん)で過ごすことであって,30分や1時間程度では「夜」なんかではなくて,単なるコクーンの日陰通過による「食」に過ぎず,それはまるで「コクーン内消灯」という程度の認識なのではないかと思われます.
私たちもまた,めったにありませんが皆既日食の暗闇を「夜」とは認識しないのと同じであって,コクーン住民は理屈ではなく体感的に日陰通過を「食」と「夜」とに厳密に区別しているのでしょう.
ではなぜコクーンでは「本物の夜」が待望されるのでしょう.
それは第2話で述べたように,黄道面と赤道面とが一致していないことに因ります.
下図上のように,コクーンの軌道高度が高い場合であって,春分・秋分の時期ではない場合,コクーンは地球の日陰を通過しません.従ってコクーンには「本物の夜」どころか,どんなに短い日陰通過も訪れません.一方,コクーンの軌道高度がある程度低いと,下図下のようにコクーンは地球の日陰を通過することが起こり,コクーンの日陰通過が起こります.軌道高度が低ければ低いほど,日陰通過の時間は長くなります.
第2話で記載の通り,春分点と秋分点では黄道と赤道が交わります.下図では太陽は向こう側にあり,地球は昼の面(日照面)を向こう側に向けていて,手前には夜の面(日陰面)が描かれています.この時期には,コクーンの軌道は地球の日陰のほぼど真ん中を横切ることになります.従って,どの軌道高度であっても最長の「夜」がコクーンに訪れます.
コクーンが日陰に入っていない場合(下図左)には,コクーンには直射の太陽光と,太陽光が地球のアルベドの分だけ反射したものが入射します.一方,コクーンが日陰に入っている場合(下図右)には,太陽光もアルベドもコクーンには入射しません.つまり,日陰に入っていなければ太陽光の直射とアルベドの分が強烈にコクーンを照らしますが,日陰に入るととてもとても暗くなるということです.なお,日陰の外でも内でも,地球は全体としてある程度の温度になっていることから赤外線を放射しているのでその地球赤外放射がコクーンに入りますが,これは目に見えることはありません.
ところで,アルベドは天体毎に違っており,また地球ひとつを取っても森林や砂漠,氷河の面積の増減によって年々変化しています.例えば,ヴァンゲリスのアルバムに「反射率0.39(Albedo 0.39)」がありますが,これはアルバムの発売された1976年当時のアルベドの値です.アルベドがほんの少し変わるだけでも地球の平均気温が1~2℃変化し,これはとてつもない影響を及ぼします.過去には地球は全球凍結を経験したとの説があり,これはアルベドが増大することで氷河が増え,その結果さらにアルベドが増大してさらに氷河が増え…という正のフィードバックがかかってしまった末の状態で,このとき生物の殆どが絶滅したと考える研究者もいます.余談ですが,現在私たちがいる時代は氷河期の真只中(氷河期の中の氷期と氷期の間の間氷期にいる)であって,地球の平均気温の安定するところは,低温側は上記の全球凍結,高温側は現在よりももう少し暑いところにあると言われています.
人工衛星のなどの宇宙機の熱設計では,太陽光,アルベド,地球赤外放射を十分に考慮しなければなりません.片側に太陽光が当たってその面はとても熱くなっていたとしても,宇宙機の内部は氷点下…ということもあり得るので,宇宙機の熱設計はかなり厄介なのが実状です.コクーンでは,内部は快適そうですから,それなりの熱設計,熱制御が成されているということですね.
閑話休題.
春分と秋分のときについて,軌道高度の違いによる夜の長さの変化を下図に示します.コクーンは繋留されているので,軌道高度に依らず常に同じ軌道角速度で軌道を周回しています.従って,円軌道の一周(360°)に対する太い実線の円弧の中心角の割合が大きいほど夜が長く,小さいほど夜が短いことになります.
下図の左は軌道高度が低い場合,右は軌道高度が高い場合を描いたものですが,軌道高度の違いによって日陰にかかる円弧の中心角が異なっていることがお分かりかと思われます.
夜の長さは,地球の大きさとコクーンの軌道高度,そして黄道にある太陽の天球での赤緯の幾何学的な関係によって決まります.これをシミュレーションすると,夜の長さは下図のように変化します.
コクーンがアポジにあると,下図下の青い線が示すように1年の殆どは夜がありません.しかし春分や秋分の時期になると夜が訪れるようになり,春分や秋分のときには最長の夜を迎えますが,それは長くても30分程度に過ぎません.これでは「夜」を夜らしく過ごすなんてできませんね.
一方,コクーンがペリジにあると,下図上の赤い線が示すように1年を通して夜は訪れ,春分や秋分のときには最長となって約9時間半の夜となります.まさに「本物の夜」と呼ぶべきコクーンの日陰通過です.
コクーンの「地球降下」は,第1話で述べた通り,アポジから静止軌道(GEO)までの第1段階を1週間で,GEOからペリジまでの第2段階を16.72時間で完了させるので,春分や秋分での「地球降下」では「地球極大」の以前・以後にも最長で70分程度の夜は訪れますが,先述の通り,この程度ではコクーン住民は「夜」とは認識しないのでしょう.また,夏至や冬至のときにはほぼ「地球極大」まで夜は訪れないことが上図から分かります.
3.3.屈折・散乱・大気光
東京コクーンに「本物の夜」が到来しました.
人々の様々な想いを載せながら,コクーンが闇に包まれます.
このコマを見て,地球の日陰面の周囲がぼぉーっと光っていることと,地球は完全に日陰面のみとなっているにも拘らずコクーンには若干太陽光が射していることに気付かれた方もいらっしゃるでしょう.
ここでは,大気による太陽光の散乱や屈折の効果が考慮されています.
光が大気中に入射すると,空気を構成する原子・分子によって,光の進行方向以外へ一部が散らされることが起こります.これをレイリー散乱といいます.レイリー散乱は,光の波長よりも小さな物質があるときに起こります.その散らされ具合は光の波長が短いほど顕著で,即ち赤い光よりも青い光の方が散らされやすいことになります.その結果,地上での晴天時の空は青空になります.一方,朝方や夕方には太陽光が大気を通過する距離が長くなるため,波長の短い青や緑の光はすっかり散らされ切ってしまい,私たちの目に届く頃には赤い光が最も顕著に届くため朝夕の空は赤っぽくなります.すると,もし地球よりも大気が濃密な惑星があったとしたら,その惑星の晴天時の空は青空ではなく,緑空になっているのかも…なんてことも考えられます.また,海に太陽光が入射すると,青い光が顕著に散らされてまた海から出て来る一方,緑や赤の光はもっと深いところまで差し込むので,その結果,海は青く見えます(青空が映っているから青いという説の反証として,曇天でも海は青っぽく見えることが挙げられます).余談ですが,雲が白く見えるのはミー散乱と呼ばれる現象に因るものです.上のコマの場合では,太陽光が大気によって散乱されるため,大気全体がぼぉーっと光って見えます.
また,光は屈折率が異なるところに入ると,その進行方向が曲げられます.池の辺りで水底が浅く見えるのに,いざ入ってみると思ったより深かったという経験がある方もいらっしゃるのではないかと思われますが,これは空気中と水中とで屈折率が異なるために,その境界で光が曲げられたことに因るものです.この現象を屈折といいます.上のコマでも,ほぼ真空と見なせるほどの宇宙空間(屈折率1)から地球大気をかすめるように入射した太陽光は,大気の屈折率が1より大きいために若干曲げられます.その結果,日陰に入ったコクーンにも一部,太陽光が当たることが起こります.
上記の散乱と屈折を図示したものが下図となります.
もう一つ,宇宙から地球を眺めたときに見える現象があります.
下のコマでは,コクーンは完全に日陰に入っていて,大気に寄って屈折された太陽光ももう届いていません.しかし地球周辺がぼぉーっと光っていることが描かれています.
これは大気光と呼ばれる現象です.
この動画(国際宇宙ステーション(ISS)から撮影した夜の地球)をごらんください.ゆらゆらと揺れる緑色のオーロラとは別に,地球のすぐ上空に黄緑色の円弧状の光が見えているかと思います.
これが大気光です.
地球の大気の上の方(高層大気)では,太陽や宇宙から飛んでくる粒子が飛び込んで空気を構成する原子・分子と衝突することなどによって,このような発光が常に起こっています.それを宇宙から見ると,地球の周囲に光る円弧として見えます.また,地上でも,新月の夜であっても夜空が漆黒にならず,また地上も真っ暗闇にならないのは,この大気光が空を光らせ,また地上を照らしているからです.
この大気光については,実際にスペースシャトルに搭乗して国際宇宙ステーション(ISS)に滞在された山崎直子宇宙飛行士にお尋ねしたところ,肉眼でもはっきり見えるとのことです.
宇宙から地球を見たときに大気光が見えることを描いたのは,漫画でも映画でも,もしかすると同作が初めてではないかと思われます.