きみを死なせないための物語 宇宙考証の解説
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epi.4

epi.4表紙
©吟鳥子(秋田書店)

4.抱きしめ合う氷像になる

第4話と第4話補講では趣を変えて,第4話で物理的なことについて述べ,第4話補講でコクーンの各所のモデルとなったと思われる場所を紹介します.

4.1.なんとかして温度を下げるよ

第4話のルイです.

ふたりで一瞬で凍りついて
©吟鳥子(秋田書店)

叙情的なことはさておき,ここではその台詞が物理的に意味するところを解説します.

宇宙モノでは,時として人は自死を選択せねばならない状況に置かれることは,みなさんも何処かでお見かけしたことがあるのではないかと思われます.

例えば「ミッション・トゥ・マーズ」では,火星周回軌道上でウッディ船長がもうどうしようもない状況に陥ります.そして彼は仲間に,自分を助けようとすることを諦めさせるために宇宙服のヘルメットを開けて…

ここで議論があります.

果たして,宇宙空間に生身が晒された人体は一体どうなるのか?

確実なのは,真空に晒されるための中で血液中の酸素が一気に奪われ,一息で気絶することです.これは究極の酸素欠乏症の状況です.

その後は,ひとつには,真空中では物質蒸気圧を押さえ込む圧力がないため体中の水分が沸騰し,その結果,至るところの血管が破裂したり,身体全体が膨らんだりするということが考えられます.これは減圧症の極限です.

一方で,体中の水分が沸騰するところまでは同じですが,まず水分が液体から気体に変わることでその蒸発潜熱分のを奪い,その結果,今度は温度が急激に低下して全身が凍結し,その後,凍った水分が昇華して身体から出て行くという可能性もあります.いわゆるフリーズドライの状態です.

そのどちらが起こり得るかは分かりませんが,少なくともルイは,そのような状態は望まないでしょう.

だからルイは,ヘルメットを開けるということはせず,「なんとかして宇宙服内の温度を下げる」ことで「氷像になる」ことを選びました.

宇宙服内は,呼吸ができるように気密された空間内に酸素を供給し,そこから二酸化炭素を回収するだけではなく,水などを循環させることで温度の制御も行っています.これらの機能を含んだ生命維持装置が,宇宙空間に晒される宇宙飛行士が背中に背負っている箱です.

ルイは,この温度制御を止めることを思い付きます.

4.2.仮定

以降では,ルイの肉体は10歳男子のものと仮定します.

また,ルイは当然宇宙服を来ていますが,宇宙服の熱容量は考えず,さらに宇宙服とルイの体温とは常に平衡状態にあると仮定します.

4.3.伝熱の形態

ルイは,継続して呼吸はできるけども,どんどん冷えていく中で意識を失い,やがて凍結することを選びます.温度制御を止められた宇宙服とその内部は,伝熱によってある平衡温度に向かって温度が変化して行きます.

伝熱の形態には熱伝導,熱伝達,熱放射の3つがあります.

熱伝導は,物体の温度差によって熱が伝わるものです.金属棒の一端を手で持ち,もう一端をバーナーで加熱すると,やがて手で持っている側も熱くなってきます.これは金属棒の両端で温度差が発生したために,高温の場所から低温の場所へ熱が移動するためです.

熱伝達は,身近な例では,猛暑日に汗をだくだくかきながら家に帰って扇風機にあたることが挙げられます.扇風機からの風が皮膚の熱を奪いますし,汗が蒸発することで身体から熱が出て行きます.

熱放射は,絶対零度ではない温度にある物体は,その温度の4乗に比例するエネルギー電磁波として放出というものです.熱はエネルギーの一形態ですから,熱放射によって物体の温度は下がります.私たちの体温は36~37℃程度ですが,この温度では放出する電磁波は赤外線となります.だから夜の真っ暗闇の中でも,赤外線カメラで見れば人の動きが鮮明に映し出されます.さらに温度が上がると電磁波は段々とその波長が短くなり,赤外線から可視光線になっていきます.可視光線は波長の長いほうから赤橙黄緑青藍紫(せきとうおうりょくせいらんし)が並んでいるので,例えば金属棒を火で炙るとまず赤熱し始め,温度が上がると橙色になり,さらに温度が上がると黄色になるということが起こります.刀鍛冶はこの色を目で見ることでいま温度がどのくらいにあるかを見て取り,適当なところで適当な勢いで冷却させることで,結晶構造マルテンサイトとかオーステナイトとか)をより頑丈なものとして固定することを行い,またこれが一子相伝的に伝えられる職人技でもあります.さらに温度があがれば可視光線から紫外線となり,そして数千万℃にもなるとX線を放出するようになります.

宇宙空間にあって,外部と物質のやりとりがない場合には唯一,熱放射が温度変化を支配します.熱放射で電磁波を放出するということは,物体からエネルギーが出て行っていることを意味します.熱放射でどれくらいのエネルギーが放出されるかは,シュテファン・ボルツマンの法則で表されます.いま物体の温度を \(T\),単位時間(例えば1秒)・単位面積(例えば1m\(^2\))当たりから放出されるエネルギーを \(I\) とすると,物体が黒体であると仮定すれば,シュテファン・ボルツマン定数 \(\sigma=5.67{\times}10^{-8}\) W/(m\(^2\cdot\)K\(^4\))を用いて,

$$I = \sigma T^4$$

と求まります.

4.4.熱容量

物体には必ず,多かれ少なかれ熱(つまりエネルギー)をどれだけ蓄えられるかという「熱容量」があります.熱容量は,その物体の温度を1℃上げるために必要なエネルギーであると解釈できます.例えば,1gの水の温度を1℃上昇させるのに必要なエネルギーは1cal=4.184Jとなります(単位calの定義は熱力学カロリーを適用しました).単位質量(例えば1kg)当たりの熱容量を「比熱」と言います.

質量 \(m\),比熱 \(c\) の物体について,ある時間 \(\Delta t\) で温度変化 \(\Delta T\) があったとすると,この温度変化に必要なエネルギーは,

$$mc\frac{\Delta T}{\Delta t}$$

として求められますが,微小量の極限をとってこれを微分で表すと,

$$mc\frac{\mbox{d}T}{\mbox{d}t}$$

と表されます.これが以降で出てくる熱収支の左辺となります.

具体的な数値として,10歳男子の体重を文献から \(m=35\mbox{kg}\) とします.また比熱は,一般に人体の場合は0.83cal/g℃と言われますので,単位換算して \(c=3472.72\mbox{kg}\cdot\mbox{K}\) とします.

4.5.基礎代謝

ここからは熱収支の右辺となります.

物体の温度を変えようとするものとして,まず人体の場合は基礎代謝がありますからこれを考えます.

人体に限らず,電気や自動車など何でも,私たちがエネルギーを消費すると,そのエネルギーは最終的に全て,物質の内部に閉じ込められるか,または熱として放出されます.人体もまた,最低限のエネルギー消費として基礎代謝分のエネルギーを消費しており,これが全て熱として放出されるとここでは考えます.従って,基礎代謝に等しい発熱 \(Q_h\) があると考えます.

10歳男子の基礎代謝は,文献より,\(Q_h=37.4\mbox{kcal/(kg}\cdot\mbox{day)}=63.39\mbox{W}\) とします.発熱ですから,温度を上げることに貢献します.

4.6.太陽光

宇宙空間では日照にいる場合,太陽に面している部分には太陽光が入射します.人体の場合にはお腹側,背中側だけではなく,頭頂部や足の裏,脇,股などがあるため,ここでは太陽に対向している面積(対向面積,\(S\))は,体表面積 \(S_h\) の3分の1であると仮定します.

文献によると10歳男子の身長は140cm程度であることと,上述の通り体重は35kgであることを用いて,このサイトから体表面積 \(S_h=1.171\mbox{m}^2\) と求まります.従って,\(S=0.39\mbox{m}^2\) と求められます.

地球近傍の大気圏外での単位時間・単位面積当たりに太陽光に対して垂直にある面へ入射する太陽光のエネルギー密度は太陽定数 \(I_s\) と呼ばれ,\(I_s=1366\mbox{W/m}^2\) が用いられます.従って,ルイに入射する太陽光のエネルギーは,単位時間当たり \(SI_s\) となります.

しかしながらこのエネルギーが全て温度変化に用いられるのではなく,一部は反射してしまい,残りの分が吸収されて温度変化に貢献します.この吸収の割合は,伝熱の分野では「吸収率」と呼ばれます.吸収率を \(\alpha\) とし,ルイの着ている宇宙服の表面は宇宙用熱制御材料として用いられるケミグレイズZ202と似たものであるとして,\({\alpha}=0.25\) と設定します(参考文献(PDF)).

以上より,ルイの身体に入射するエネルギーは,単位時間当たり \({\alpha}I_sS\) となります.エネルギーが入ってくるので,温度を上げることに貢献します.

4.7.熱放射

4.3で述べた通り,ルイからは熱放射でエネルギーが放出されます.

ところで,4.3での熱放射は黒体の場合でしたが,実際には完全な黒体はなく,熱放射の一部しか放出されない灰色体となります.放出されるエネルギーの割合を「放射率」と呼びます.放射率を \(\varepsilon\) とし,ルイの着ている宇宙服の表面は宇宙用熱制御材料として用いられるケミグレイズZ202と似たものであるとして,\({\varepsilon}=0.83\) と設定します(参考文献(PDF)).

また,熱放射は全ての面から放出されるので,その面積は体表面積 \(S_h\) であるとします.以上より,ルイの身体から放射されるエネルギーは,単位時間当たり \({\varepsilon}{\sigma}T^4S_h\) となります.エネルギーが放出されるので,温度を下げることに貢献します.

4.8.熱収支

以上のことをまとめると,ルイについての熱収支は以下のようになります.

ルイの熱収支方程式
$$mc\frac{\mbox{d}T}{\mbox{d}t} = Q_h + \alpha I_sS - \varepsilon \sigma T^4S_h$$

初期条件として,ルイの体温を37℃とし,日照にあって太陽に向かっているものとして計算した結果が以下になります.

なお,このグラフの縦軸は体温であると解釈ください.つまり,ルイは基礎代謝分の発熱があって,太陽光もあたっていても,それよりも熱放射によってどんどん体温が下がっていくことになります.文献によれば,低体温症では体温が25℃くらいになると昏睡状態になるとのことですので,ルイは温度制御を止めてから1時間半もしない内に意識を失い,6時間余りで全身が凍結することが予想されます.

ルイは「一瞬で凍りついて」と言っていましたが,実際には一瞬ではなくてある程度の時間を要することになります.

しかしこれはルイの若気の至りからか,熱い想いからか,「そんな風にいうならこうなってやる!」という反駁だったのかも知れません.

ルイの体温履歴